江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。
義尊の母、法誓院三位局(さんみのつぼね)は
義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、
さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、
義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました。
両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で
実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。
義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、
重要なものが多くのこされています。
また、法誓院三位局は日蓮宗の信者で、北岩倉に證光寺を創建しました。
幕末・明治期の混乱の中でこの證光寺は廃寺となり、実相院に合併されましたが、
そこに江戸末期の画壇の巨匠である岸駒(がんく)が隠棲したため、
彼の描いた灯篭「寒山拾得の図」が実相院に遺されています。